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私は、半生を築窯と発掘と飯に追われて過ごしてきた。思えば、作家生活に入れるかなと思った矢先に満州事変が勃発し、出征二年にして傷痍軍人、内環除隊、鎌倉居住十年、二回の応召におびえながらも、ようやく細々と食えるようになったところで、強制疎開。その当時の多くの人たちと同様に、席のあたたまる暇のないままの明け暮れであった。
我も人も解らん絵では飯が食えないので、リンゴが乗るとか、お茶がこぼれぬとかの用途を持った陶器づくりのために、鎌倉五山の一つ寿福寺境内に築窯し、芸能塾を開いたのであった。当時、陶器づくりは職人で、職人風情が芸術家呼ばわりなど大いに憚られる風潮であった。だが、その私が東慶寺の鈴木大拙僧に美術談義をしたりしたのも、その頃である。
過ぐる年、私は現在地(加賀市作見町)に窯を移した。門前に七尺の碑を建て、表面に「九谷作見窯」と、私が発見、発掘した古窯は多く、それらを「九谷」と「作見」に封じて銘刻した。「極火即是業火」というのが私の唯識であり、画論でもある。
ここで私は、何かとてつもないことをやらかそうと企んだ。それは、美しく化粧した女の手足を屈伸させて壺をつくったり、指を組まして茶碗をつくったり、お尻をおろさして大皿をつくるなどというようなもので、モチーフには困らなかった。